「山羊と原爆」/岡真理(おかまり・京都大学教授・現代アラブ文学)

*2011年5月16日京都新聞夕刊「現代のことば」に寄稿されたものを著者の岡真理さんの許可を得て転載しています。

「山羊と原爆」

1928(昭和3)年、富山のさる旧家に男児が誕生した。父親は帝国陸軍の将校。待望の長男だった。だが、赤ん坊は衰弱しており、生き永らえそうに見えなかった。父親は下男に赤ん坊を埋めるように命じた。下男は息のある赤ん坊を埋めるにも忍びなく、生きている間だけでもと、山羊の乳をやった。この乳が甘ん坊の命をつないだ。

瀕死状態で生まれたのが嘘のように腕白な少年に成長した長男は、父親と同じ道を歩むべく、広島の陸軍幼年学校に入学した。皇国の大義を純粋に信じていた。

1945(昭和20)年8月、幼年学校を卒業して、どこかの街で任官を待っていたとき、日本降伏の噂が伝わった。彼は同志とともに、国民に徹底抗戦を呼びかけるビラを刷り、飛行機で空から撒くことを画策するが、上官に見つかって営倉に入れられる。営倉から出されたとき、部隊はすでに解散していた。

除隊後、彼が向かったのは郷里でなく広島だった。彼にとって第二の故郷であるその街が新型爆弾で壊滅したと聞いたからだ。当時の市内は民間人立ち入り禁止だったが、軍関係者でもあった彼が街に入るのは難しくはなかった。変わり果てた街を、彼は何日も彷徨い続けたという。

敗戦後、「アジアの解放」が帝国による侵略に過ぎなかったことを知り、彼は共産主義者になって、レッドパージの時代、地下生活を送る。やがて業界紙の記者となり、結婚したのは30を過ぎてからだった。子どもも生まれ、幸せな結婚生活も束の間、1963年、彼は突然、肺癌を発症、余命半年と宣告され、その3ヶ月後に亡くなった。2歳半の娘を遺して。35歳だった。これが、私の父について知るすべてである。

自分がなぜ癌になったのかも、父は知らなかっただろう。当時はまだ「入市被曝」などという言葉も存在しなかった。だが、あの夏、17歳の彼は、残留放射能の中をたしかに長時間、彷徨ったのだ。母校は爆心地のすぐ近くだった。学校にいた1学年下の後輩たちはみな、原爆で亡くなったという。廃墟となった街を彷徨いながら彼は、わずかな偶然で自分が免れた運命がいかなるものであたかを焦土の中で幻視していたのだと思う。

このとき、彼の体内で時限爆弾が仕掛けられた(放射能による晩発性障害、すなわち「ただちに健康に害があるわけではない」というのは、こういうことだ)。あのとき広島に行きさえしなければ、父が癌で死ぬこともなかった。しかし、「もし」と言うなら、小さな命を憐れんだ下男が赤ん坊に山羊の乳を含ませてくれなかったら、彼の人生そのものがなかったはずだ。父の35年間という人生は、一人の心根の優しい人間と山羊の乳が与えてくれた贈り物だ。1年早く生まれていれば、南洋に送られ、戦死していただろう。1年遅ければ、原爆で死んでいた。1年前でも後でもなく、あの年に父が生まれ、そして山羊の乳と、放射能の晩発性障害の発症までの時差のおかげで、今、私という人間が存在している。

酒井安紀子 の紹介

亀岡で子育てAmigo!の主宰者です。
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